神の念をもって同修と接する
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2014年6月23日】私は修煉の道で足を踏み出してから、すでに5、6年が経ちました。普段、同修間にトラブルが起きた時も、また、自分と他の同修との意見が違う時も、私はよく憤って腹を立てていました。師父が『ヨーロッパ法会へ』の説法で述べられた、「誰それが自分に優しくなかったとか、誰それの言ったことが気に障ったとか、誰それが非常に常人的だとか、誰それがいつも自分とトラブルを起こしているとか、自分の意見がいつも採用されないとか」[1]は、まさに自分自身のようでした。しかし、そのために修煉は放棄していませんが、いつも不満をもらしていました。

 昨年9月、明慧ネットに法を暗記する修煉者が多くいるという文章が掲載されました。それを見て、私は心を大きく揺り動かされました。年配の修煉者が根気よく『轉法輪』を暗記しています。私はまだ若いのに、なぜ、暗記できないのでしょうか? そこで、私は法を暗記しようと決意しました。実は以前、何回も始めたことがありますが、しかし、続けることはできませんでした。たとえ、一日にほんのわずかしか暗記できなくても、今度こそ、必ず最後まで続けていこうと思いました。

 『轉法輪』を暗記するために、私は簡単な方法を採りました。それは一段ずつ暗記し、一旦暗記し終えたら、繰り返さないで、次の段に進みます。大体半年ぐらいで『轉法輪』を暗記することができました。法を暗記する過程で、たくさんの法理を知り、しかも、自分の執着心も放下しやすくなりました。

 ある時、法を暗記した後で突然、心の中で、同修に対する良くない考えが少なくなり、同修に寛容になったと感じました。自然に師父の法を思い出しました。師父は『轉法輪』の中で「ではなぜ、修煉者のためならしてあげてもいいのでしょうか? 修煉する人こそ最も貴重なのであり、その人が修煉しようと思うこと、そこで生じた一念こそ、なによりも貴重なのです」『佛性がひとたび現われると、十方世界を震わす』という言葉があります。覚者がそのような人を見ればひとしく救いの手を差し伸べ、無条件に助けてあげようとします」「したがって、ある人が修煉しようと思うと、佛性が現われて来たと認められます。この一念こそ最も貴重なものです」[1]と述べられています。

 師父の法に基づいて、私は悟りました。神が人を量る基準と、人が人を量る基準は違います。修煉者の中にもよくあることですが、ある修煉者の状態はどう見ても、修煉者らしくなく、常人の中の良い人にも及ばないと思っていました。どうしてでしょうか? それは私たちが神の量る基準で見ることを忘れてしまっているからです。つまり、神は私たちの修煉する心が最も貴重だと見ており、私たちは同修に対してもこのように見ます。常人は社会でいくら良くても、修煉しないかぎり、神から見るとただの常人です。いくら良くない人でも、もし修煉したいと思えば、この一念こそが最も貴重です。この一念こそ、常人の中の良い人を遙かに超えているのです。

 私たちが神の念で周りの同修と接すれば、同修がとても貴重であると感じるようになります。同修に対して様々な考えがなくなり、同修間の隔たりが消え、お互いの協力もより良くなるでしょう。真剣に『轉法輪』を読むと、師父は法の中で何回も「貴重」というこの言葉に言及されています。以前これは、師父がただ慈悲であるのだと思っていましたが、師父は私達のことを貴重だと思ってくださっているのです。いつまでも悟らない同修の間でも、お互いにこのような神の念で対処すべきです。

 同修と会った時、いつもお互いに挨拶すらしないのですが、心の中で同修に対して様々な思いがあります。「この修煉者は修煉状態が良く、ぜひ、この人と話をしたい」「あの人とはそりが合わないので、避けた方がいい」など。これはすべて自分の執着心だと分かりました。もし、私たちが個々の同修を最も貴重であると認識できるようになれば、私たちは完全に一つの全体となります。

 これは個人的な理解ですので、適切でないところがあれば、同修の皆さんの慈悲なるご指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/12/4/213776.html)
 
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