病業の中で色欲心を見つけた(一)
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文/アメリカの大法弟子 

 【明慧日本2014年6月24日】(次の文へ

 私は法を得て5、6年になりますが、しかし学法の重要性を理解していなかったため、法を実証する仕事を修煉とし、毎日忙しく、精進していると思っていました。しかし、去年突然の病業に襲われ、目を覚ましました。 

 ある日、インターネットで江××のニュースを見て、よくない一念が生じました。その瞬間に直径2ミリぐらいの金属球が一秒に満たないうちに胸から入ってきたと感じました。しばらく経って、胸のところにできものが出てきて、直径はちょうど2ミリぐらいでした。自分の病業の症状とこのことが関係しているか分かりませんが、なぜ私は迫害されたのでしょうか? 内に向けて探し始めました。 

 学法グループでこの事を話すと、ある同修は今の迫害は大体色欲心と関係があると言いました。しかし私は気にせず、自分と関係ないと思い、自分はこの面で心配する必要がないとずっと思っていました。その後、もう一人の同修が私に、「そう、色欲心にほかなりません!」と言いました。彼女自身、良くない念が生じた時、夜同じベッドで寝ている子供の手が突然、無意識に彼女の胸を力強く叩いてきて、とてもびっくりしたことがあると言いました。考えてみれば、迫害の部位が胸にあるのは、自分の情が重いからでしょうか? 私は夜寝る前に一体どんな原因なのか、見せてくれませんかと考えました。結局夢の中で蛇を見ました。また別の機会に、波の激しい海の中で、他人の手から子供ぐらいの魚を受け取った夢を見ました。その間ずっと内に向けて探していたため、いつもより警戒して、師父も内を探すことを加持してくださっていると感じました。頭の中ですぐに魚―欲―獄(中国語ではこの三文字が同じ発音)が浮かび、目覚めました。しかし自分に色欲心があるのか分からず、どこが間違っているかも分かりませんでした。明慧ネットでこの面に関する同修の交流文を大量に読んで、やっと自分の問題を見つけました。 

 当時修煉し始めてから、すぐに神韻のチケット販売や大紀元のセールス、三退活動に参加して、毎日とても忙しく、一方で学法の重要さを知らず、最初は学法と煉功が毎日欠かせないことすら知りませんでした。内心では一体何が修煉なのかをはっきり知りたいと思っていました。この問題は自分が生まれてからずっと知りたがったことのようでしたが、学法すべきだということを知らなかったため、心の中にたくさんの問題を抱え、とても辛く感じていました。そのため、同修に会えば必ず質問していました。ある同修からは、私のようにこれほど修煉したい人を始めてみたと言われるほどでした。その後、学法をするべきと知りましたが、妨害もとても大きく、なかなか心を静めて学法できず、頭が朦朧として、法との間に壁があるようで、長い間突破できず、心が苦しく、いらいらし始めました。そのため、家族は私を理解できず、法輪功を修煉してから私の機嫌が悪くなったと見て、誤解が生じました。 

 それからある同修と知り合いました。彼は私の状況を知り、助けてくれようとしました。それから私はいつも彼のところに通い始め、数年来の困惑を一気にぶつけました。時にはおかしな問題でも、同修は全部じっくり回答してくれて、時間を惜しまず助けてくれました。彼にとても感謝しています。生活の中で一つの扉が開いたように感じ、話をとても聞きたくて、同修はよく知っているなぁと思い、それから好奇心と求める心、歓喜心を抱えて聞きに行きました。徐々に同修を非常に信頼するようになり、何もかも同修に聞きに行くようになり、知らないうちに同修に頼る心が生じました。今思えば、旧勢力が按排した法を学ばず人を学ぶ道を歩んでしまったと分かりました。 

 同修が明慧ネットの交流文で言及した、男女の同修が二人きりで接触することをできるだけ避けたほうがいいとの提案を見て、とても道理があると思いました。私たちは師父の弟子なので、旧勢力は私たちを滅しようとしてもできません。しかし、旧勢力は漏れを捕まえたら、私たちを少しずつ不正へと導き、最終的に滅するまでに達します。私は始めの頃、主人はとてもよい人で、もし修煉上でも一緒に話すことができたらどんなにいいか、そうしたら私は毎日幸せにいられると、不正な考えが出ました。それから家族が旅行に出かけようと提案しても、私はつまらないと思い、時間の無駄使いだし、むしろ同修と話したほうが更に有意義だと思いました。旅行から帰ってきて、同修を見たら嬉しくなりました。それは、また自分が好きなことを話せるからでした。今見れば同修と一緒に居たいという心はすでにそれほど純粋なものではなく、情が混じり込んでいました。当時、ほかの同修がこれが正しくないと指摘してくれましたが、私はみんな修煉者だし、大丈夫でしょうと思いました。しかも自分の家庭関係はとても良いから、心配は要らない、それに知っている同修が少ないので、この同修を失いたくないと思い、あまり重視しませんでした。 

 実は、自分が大丈夫と思うのは常人の理で量っているからです。ここまで書いて、心がとても痛くなりました。以前、色欲の戒律を犯すというのは、行為を犯すことだと思っていました。しかし、大法が私たちに教えてくださったのは、心を修することです。自分の心はすでに動じていたのに、自分はまだ分からずにいました。しかし、全宇宙の神様には見えました。 

 師父は私の危険さを見られたのかもしれません。ある同修はいつも私と自分の色欲心の問題を交流してくれていました。しかし、私はかえって自分が彼女を助けていると思っていました。ある日、私は楽しそうに彼女に、ある同修が私を助けてくれていて、今やっと交流できる人を見つかったと言いました。彼女は、あなたは本当に彼を感謝しているかもしれないけど、しかし同修への依頼心、好感はみな、色と欲に満ち溢れていると言いました。私はびっくりして、これは彼女が話せる話ではないと思い、本当に色欲心と関係があるのかな? と疑問を抱え、このことを重視し始めました。 

 (続く)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/6/15/293470.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/6/22/1743.html)
 
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