深く隠された執着に気づく
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2015年6月14日】最近、個人修煉において重大なことに気付きました。自分の捨てがたい一抹の執着が、心の奥深くに隠されており、あまりにも深く仕舞われているので、なかなか気付かないほどです。

 今までの修煉を振り返ると、執着心を放下することについて、初期のゆっくり少しずつという段階から、次第にこだわりが少なくなり、最後に手放すという道を辿ってきました。表面から見ると、修煉と共にどんどん執着心を放下しているように見えますが、心の奥深くには無意識に、一抹の触れられがたい執着が固守されています。

 師父は、『北米第一回法会での説法』の中で、「もし修煉者が表面では放下しているだけで、内心ではまだ何かを守り固守していて、自分の最も本質的な利益が傷つかれないようにしていれば、皆さんに教えますが、これは偽りの修煉です!」[1]と説かれました。

 自分自身は、真に修煉しているのかそれとも修煉の振りをしているだけなのか。固守しているものは何でしょうか。最も本質的な利益とは何でしょうか。自分の触れられがたい一抹な執着とは一体何でしょうか。

 『精進要旨二』「最後の執着を取り除こう」をもう一度読み返して、私は、修煉者がいかに修煉するかが、全ての答えになるという結論に辿りつきました。

 もし修煉の中で、ある日、出家しなればならないという試練に直面したら、出家できるでしょうか。日常の豊かさや賑やかさもなければ、家族の団欒や心地よい暮らしもなく、ただ質素で静かな修煉の毎日に身を置く決断を躊躇なくできますか。

 もし修煉の中に、野宿をしたり、民家の軒先や納屋などを借りて仮眠し、ひたすら歩く行脚があれば、躊躇わずに行きますか。心地よいものはなく、修煉のみで、「其の筋骨を労せしめ、其の心志を苦しめる」という苦しみに耐えられるでしょうか。

 もし修煉の中で、人家を回り食べ物を乞う托鉢を行う必要があれば、躊躇せず行いますか。今の仕事、財産、ちゃんとした身なりを捨て、面目や体面を気にせず、食べ物を乞いに行けますか。好みの食べ物が望めず、口にするのは乞われてきたものだけという毎日に耐えられますか。

 私には、上の「もし」を躊躇わずに100%「はい」と答える自信がありません。心の奥深い処になくすべき根本的な執着がまだ隠されています。これらの「もし」には実際に直面することがないかもしれませんが、心の奥深い処にまだ執着が隠されているかという検証は、何らかの形で必ず行われるでしょう。

 どんな形の試練にせよ、それは、深く根が張りついた修煉者の執着を引っ張り出して、放下させようとすると同時に、真に修煉しているかどうかの検証にもなります。

 考えてみてください。覚者になるには多くの試練と苦難を乗り越えなければなりません。神を成就する道のりが平穏無事で、風雨にさらされないはずがありません。

 誠心誠意、着実に大法を修煉し、三つのことをしっかり実践し行うこと、これは金剛不壊で永遠な大覚者に成就する唯一の保証です。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『北米第一回法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/2/19/304237.html)
 
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