海外の新しい学習者「観念を変え 内に向けて探す」
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文/海外の新しい学習者

 【明慧日本2015年7月7日】私は修煉を始めて2年以上経ちました。法を正す進展に追い付くために、私は修煉を緩めてはいけないと思いました。なぜなら、師父は私の命を伸ばしてくださり、私は修煉して、衆生を救うためにこの世に来たからです。

 私は毎日学法し、煉功し、発正念する以外、人を救うために中国大陸に電話をかけています。私の当番であっても、なくても、私は毎日電話をかけています。いつも夜中寝ずに、電話をかけ、人を救っています。私の思いは、ただ一人でも多くの人を救いたいだけです。相手が電話に出なくても、電話のベルが鳴っただけで、他の空間の邪悪を解体できると私は悟りました。

 ある日、私はひとりの同修に、電話で「私は執着心を一つ取り除きました」と伝えました。その同修は「それはよかったですね。向上しましたね」と言ってくれましたが、すぐに私にはもう一つの執着心があると指摘してくれました。私がそれは何かと尋ねたら、同修は「あなたはいつも頭に悪いものがあり、聴力に影響しています。この観念を変えるべきだと思います。修煉者は、それを取り除くべきです」と言いました。私は確かにありましたが、それを認めたくありませんでした。しかも、実際、その悪いものが私の聴力に影響をしていました。当時、彼女はまだ実際の状況をよく理解できてないと思っていました。また同修が何回もこの観念を変えるように言っていることに、少しいらいらしていました。それで、すぐ彼女に「このことがあなたの身に起きていないから、あなたは観念を変えることは容易いと思っているのです」と言い返し、電話を切りました。

 電話を切ってから、私は考えました。このことは明らかだが、どうして私に観念を変えるようにと言っているのだろうか、しかも心のなかで彼女に不服を感じ、つらいと思い、不平不満を感じていました。その時、突然「この考えは違う、これは自分の修煉ではないか? 同修の言ったことが正しいか、正しくないかに関わらず、なぜこれほど怒り、しかもこれほど心が動揺しているのだろうか?」と思うようになりました。私は急に師父の説法を思い出しました。「皆さんが知っているように、修煉者がいつも話していることですが、あなたにその心があれば、心が動じるのです。その心がなければ、風が通り過ぎたかのように、何も感じません。あなたが殺人、放火しようとしていると言われたら、それを聞いて面白いと思い、(師父が笑って)ありえないことだと一笑に付します。まったく気にしません。なぜなら、あなたにその心がないから、この話に刺激されることがありません。その心がなければ、あなたを刺激することができません。心が動じれば、あなたにその心があることを物語っています!心の中で本当に不平を感じていれば、この心が小さくないということです。(拍手)それなら、修めるべきではありませんか?」[1]当時、このことに気付いた私は驚きました。私は心が動じ、心中穏やかではなかったのは、私に原因があり、このものがあると悟りました。

 急いで内に向けて探してみると、人に指摘されたくない心、闘争心、言い逃れしたい心、疑心、顕示心、自分を偉く思う心などなどの人心が数多くありました。これほどたくさんの人心を持っていては、どうやって強い正念が発せられるでしょうか? 私はだんだんと分かってきました。師父は同修の口を借りて、私に速くこれらの心を捨てるようにと悟らせてくださいました。もし、本当に悪いものが頭にあるとしても、私はこの観念を変えれば、正念をもって、それを否定すればいいのです。そうすれば、師父は私のために何もかもやってくださることができます。なぜなら、大法は超常的なものだからです。もし、私が自分のこの観念を変えさえすれば、奇跡は必ず現れます。

 翌日私は車に乗って出かけるとき、また頭の中に悪いものが出てきたと感じました。以前であれば、このような状態が現れた時、私は緊張し、気分が悪くなり、辛いと感じ、頭が悪いもので一杯になったように感じていました。それで、私は慌てて煉功したり、普度(大法の音楽)を聞いたり、学法したりしていました。また、よく第二式の功法をやっていましたが、今日はこの状況が現れた時、私は緊張せず、この観念を変えようとしました。すべてが虚像だ、錯覚だ、相手にしない、私は大法弟子だ、私には師父がいらっしゃる、どんな悪いことも起きない、と私は人心を放下しました。しばらくして私はこのことをすっかり忘れていましたが、何も悪いことなど起こりませんでした。

 午後になって、頭の中にまた同修の言った、あなたは頭の中に悪いものがあるという観念を変えるべきだということが浮かんできました。私は内に向けて探し、観念を変えましたが、その認識はまだ浅はかでした。私があまりにも悟らないので、師父はまた同修の口を借りて、私にこの観念を変えるように指摘されましたが、私はまだ悟らず同修に言い返してしまいました。私は同修に言い返したのではなく、師父に言い返してしまったのです。師父は同修の口を借りて、私を悟らせようとしてくださいましたが、私はまだ悟らず、彼女に言い返しました。私は非常に辛く悲しくなり、慌てて「師父、申し訳ございません。弟子は愚かで悟ることができず、師父に言い返してしまいました。師父、申し訳ございません、申し訳ございません」と涙を流しながら言いました。その時、どうして今日座禅をしたとき、足が痛くなかったかが分かりました。それは、私がすでにこの観念を変え、自分の心の中の執着を見つけだしたからです。

 師父が私に按配された道は最も素晴らしいものです。今後、私は自分の思い通りに行うことをやめ、確固たる信念で三つのことをしっかり行い、自分をよく修め、法を実証する最後の道を着実に歩み、真の法を正す時期の大法弟子の中の一人となるように頑張ります。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/6/23/311312.html)
 
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