法理を理解し、色欲を捨てきる
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 【明慧日本2013年7月25日】明慧週刊文章の「情欲を放下して、人から抜け出る」には、色欲について大法修煉者がいかに放下すべきか、いろいろな意見がありました。私はこの方面で試練が多く、よく行わなかった部分が多かったのです。私は80年代に好色な武夾小説に深くはまりました。汚れた環境の中で明晰に自分をコントロールでき、色欲をきれいに捨てきったのは、つい最近のことです。ここで、十数年修煉する中で得た教訓や心得などを書き出して、同修と交流したいと思います。

 色欲を捨てきることができたのは、はっきりした法理からの認識があったからでした。ある日ぱっと次のような認識がありました。「人の一生はすでに按排されたもので、自分の家族以外は、まるで他人のお金に対するように態度が明確でなければならない。この社会は無数の家庭によって構成されており、大法弟子としては、社会に責任を負わなければならず、神が按排された秩序や道徳を守らなければならない」

 大法弟子は金銭や物質の利益については明確な態度で、それらのものに手を出さないばかりでなく心さえ動かしません。肝心なのは心が動かないことです。この認識があってから、外で異性を見たとき、それは人の財布の中のお金を見ることと同じであるという心理状態を保つことができました。現代社会で人々は旧勢力の作用の下で、伝統的な倫理観がなくなり、過度な露出やセクシーな格好が流行っています。私はこの法理が分かった後、これらの格好をした異性を見ても心が動かず、テーブルに置いてある他人の財布のように避けました。これらの人は方向性を見失った生命で、本来あるべき姿ではないと気の毒に思いました。

 個人の悟りですが、内心から法理を理解できなければ、色欲を捨てきることはできません。歴史上、一部の法門は色欲の問題について「美女を見る時は死亡した後の腐敗した形象を想像するように」修めていると言われますが、これは色欲を捨てることではなく、せいぜい美女から逃げ回っているだけです。それ自体は汚いものを恐れる執着かもしれません。色情のものを多く目にすれば、魔性はますます大きくなり、心を動かさずにいられないかも知れません。染めものがめの中にいれば、時間がたてば汚染されるのは当然のことです。私はこの方面でよく行うことが出来ませんでした。これは私の教訓です。

 師父は『精進要旨』「道法」で「注意してください。わたしは皆さんに人為的に何かをするようにと言っているわけではなく、皆さんに法理を理解してほしいと思っているだけであり」と説かれました。私はこの段落の法で色欲の問題を理解した気がします。法理からはっきりした認識がなければ捨て切ることはできません。

 色欲は常人の中に存在する魔性であり、人体を形成する一種の要素です。夫婦生活があって人類は子孫を残すことができ、これは天から賦与された生活方式ですが、夫婦の間に限ります。しかし色欲や欲望そのものは夫婦の範疇を超えた生理的な衝動です。これは低能な人性であり、魔性であり、佛性ではありません。低下した人性を抑制して、何の汚点もなく暮らすことは現代人にとって難しいことですが、これは義務です。

 修煉者は、法理を理解し、佛性を固めたのち魔性から抜けだすことができます。神が人類に付与した夫婦の帰属と家庭の秩序を尊重し守らなければなりません。修煉者は情欲と欲望の束縛から抜け出してから、神に向かうことができます。修煉者の身体は次第に神の体へ変化しますが、神の体には常人の欲望がありません。修煉者は他人を先に考え、情欲の助けがなくても相手に優しく対処するのです。魔性は修煉者が法理をはっきり理解していないところや、足りない部分を狙うので、修煉者は必ず魔性の束縛から抜けだし、佛性を固めなければなりません。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/7/18/276802.html)
 
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