神韻のアート・エディターの仕事に携わる中で向上する(二)
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文/台南の大法弟子

 神韻を鑑賞するとき悟った自分の執着

 DM事件を通して、同修の広大な寛容を感じました。自分と比べると差を感じ、私は自分を修めて「真善忍」に同化したいと思いました。しかし、本当の試練が来た時、寛容を忘れてしまい、同修に怨みが生じました。

 神韻が台湾来る数日前、準備を行なう中で、私は学会への怨みが生じました。学会が何年も同じ問題を繰り返しているのを不満に思い、なぜ進歩しないのか、かえって以前のほうがましだと思いました。欠けているところを自分でもどうすればいいのかが分からないのも嫌で、往々にして文句を言いながら不足のところを補いました。DMのことで同修がどれほど自分に寛容だったのかをすっかり忘れ、内に向けて探すのも忘れました。修煉状態がどんどん落ちて、さらに他人のせいで自分の状態に影響してしまったと不満が増えました。神韻が終わったら、このことを必ず言い出して皆と話さなければと思いました。

 神韻が台南で公演を行なう時、私は初日の公演を見に行って、一番前の列に座っていました。当時、頭の中は何の考えもなくなり、最後の演目『神仏の慈悲』が上演された時、天幕にある師父の法像を見て、師父の目を見て、私はまるで固まってしまったようでした。頭の中に一瞬にして、師父の法「慈悲は能く天地の春を溶かし」(『洪吟二』「法正乾坤」)が浮かびました。

 私は涙をボロボロ流して、自分が間違ったと分かり、師父の慈悲と寛容が再び私の頑固な執着を溶かしました。今、私は自ら内に向けて探し、無条件に協力し合っています、自分をよく修めてこそ、衆生を救い済度することができます。法に溶け込む喜びで涙がとめどなく流れ、なかなか抑えることができませんでした。

 大法の仕事に没頭 常人のことを整えてくださった師父に感謝

 去年の9月、神韻のアート・エディターの仕事が始まる同時、学校は新学期を迎え、私も新しい学生たちを迎えました。夏休み期間中に、新しい学生の中に2人いたずら好きの子がいて、夏休みキャンプ中には、言葉が乱暴で口を開くたび汚い言葉を使ったため、誰も面倒をみることができないという話を聞きました。当時、私は本当に心細くて、自分にうまくできるかどうか自信がありませんでした。しかし、私は大法を実証したいという願いを持っていました。何といっても大法弟子は一般の人を越える能力を持っています。しかも、アート・エディターの仕事はすでに忙しくなっていたため、時間をとって何か特別な対応をすることもできませんでした。

 結局、新学期が始まり、皆の予想とは異なり、何事も起きず、教室に何か特別なこともありませんでした。活発な子は確かにいましたが、一番心配していた2人の学生は、かえっていつも私のそばにくっ付いて、私を手伝ってくれました。今、7カ月が経ち、私が深く感じたのは、例年のいたずら好きの子の中で、今回の子どもたちが一番大人しく、一番話を聞いてくれて、頭もよく、謙虚です。今年私はあまり苦労しませんでしたが、各方面は例年と比べて最もよくできました。

 皆が法のために来て、一生一生の生まれ変わりも今の人生のため、彼らはみんな縁ある人です。今年、クラスで一緒に神韻を見に行った学生と親たちも例年より多く、60数人に上りました。

 大法弟子として、私は分かっています。佛恩浩大。このすべては師父がやってくださったので、師父に感謝いたします。

 次元に限りがありますので、不足なところはご指摘願います。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/7/9/276447.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2013/7/24/141218.html)
 
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