文/河北省の大法弟子
【明慧日本2014年1月5日】私は旧い大法弟子です。歩んで来た道を振り返ると実に感無量です。旧勢力が造った環境と魔難は本当に険しく、師父の慈悲なるご加護がなければ、大法弟子は個人の努力だけではとても歩んで来られるものではありませんでした。師父のご恩に感謝いたします! 大法のご恩に感謝いたします!
私は1995年の年末に修煉を始めました。当時は個人修煉の時期で、毎日同修達と比して学び、比して修し、とても充実した楽しい日々を過ごしたことを懐かしく思いだしました。
1999年7月、邪悪な迫害が天地を覆い隠すようにやってきました。しばらくの間、私は意気消沈していました。師父は慈悲に、何度も私にヒントを与えてくださり、私は同修から当時とても入手し難い明慧ネットの多くの文章を入手して、読むことができました。大法弟子が法を護る多くの壮挙に励まされ、私もついに法を正す師に手伝い、衆生を済度する大きな流れに身を投じるようになりました。
絶えず法を学ぶことによって、私は法を正す時期の大法弟子の責任と使命が分かり、世間の人に大法の真相を伝えました。私は真相資料作りから始めました。当時、真相資料はとても貴重でした。同修達は危険を冒しながら、市や省から運んで来ました。その当時、外に出て来る同修はまだとても少なく、仕事の量は大変多かったのです。最初の頃、私は恐れる心が重く、いつもビクビクしていました。しかし法を学び、心を修めることを通して、恐れる心がだんだん少なくなり、もらってくる資料も多くなりました。次第に、県内だけの配布から、県外の村々まで、範囲を広げました。
純粋な一念を発する
2000年の末から2001年の初めまでは、私の修煉の転換期でした。そこから、私は全面的に技術を担当するようになりました。私は真相資料作りの問題解決に力を注ぎ、今日まで続けてきました。
当時、省の資料点は大変な被害を受けました。原因は資料点が集中し過ぎていたことで、大量の資料が同じ場所で印刷された後、それぞれの地区、それぞれの県に運ばれていくシステムでした。安全意識が薄かったため、資料作りの同修はすべて不法に連行され、迫害されて死に至るケースもありました。数十万元の設備も警官に没収されてしまいました。
その時、私の県では2カ月ほど、真相資料が不足してまったくないという状態になりました。同修達はとても焦り、私もとても焦りました。その時、私はとても純粋な一念を発しました。私は技術を学んで明慧ネットにアクセスし、資料を印刷し、同修達に提供して衆生を済度したいと思いました。
この純粋な一念をみられた師父は私を助けてくださいました。私は妻にパソコンを購入したいと相談すると、妻は意外にも賛成してくれました。当時、パソコンは私の地元ではとても珍しいもので、あの小さな街で誰がパソコンを買うでしょうか。しかも当時、家の経済状況は大変厳しく、家の僅かなお金を使って、何の役にも立たないパソコンを買うなどは、ほとんどあり得ない事でした。しかし、常人である妻はなぜか賛成してくれました。
ゼロからのスタート
パソコンは買いましたが、技能を学ぶことが大きな課題となりました。当時技術が分かる同修は一人もおらず、地方の同修との連絡も途切れており、封鎖を突破する技術は、パソコンに詳しい常人でもわかりません。あの頃、環境はとても邪悪で、例え誰かが出来ても、私は聞くことができませんでした。私は自分で模索しながら独学しました。しかしこの模索の過程は相当辛いもので、学ばなければならないものが多すぎました。ここで、私は当時いかにして明慧ネットに接続したか、その過程についてお話しさせていただきます。それは内に向けて探して、心を修める過程であり、また師父が助けてくださった過程でもありました。
パソコンに触ったのは初めてのことでした。私はマウスすら使えませんでした。その時のOSはまだWindows95とWindows 98で、私はまずマウスの使い方、OSの使い方から習い始めました。本を買って来て、少しずつ学び、しょっちゅう夜中まで勉強しました。昼間は仕事をしなければならないし、分からないことをパソコンの詳しい常人に聞かなければなりませんでした。時には一つの作業をするのに相当苦労しました。またパソコンのシステムを壊してしまい、人に頼んで取り付けてもらうこともしばしばありました。私は何度も人に頼んで、彼らがパソコンをいじる時、そばで学びました。私は「絶対にマスターする」と、一念をしっかり固めました。
次第に、OSについて、私は大体マスターしました。そこで、私はネットにアクセスしてみました。当時ネットにアクセスするにはまずダイヤル(電話回線)を回さなければならず、数KBの回線速度しかありませんでした。しかも値段もとても高かったのです。毎月百数元の電話代を払いました。この費用は妻には内緒にしていました。当時、家の経済状況はとても困難でした。妻は私が2度も不法に拘禁されたため、たいへん恐れて、断固として私が大法の仕事をすることを反対しました(今、私の家庭環境はとても良くなり、妻は私を支持してくれ、私は大法の作業をすべて彼女に内緒にしていません)。時に私は家のもの(たとえば銅、鉄)を売って、電話代を支払いました。
常人のウェブサイトにアクセスするのはそんなに困難ではありませんでした。ダイヤルとブラウザの使い方を覚えればできますので、私は早くうまく使えるようになりました。そして、私は封鎖を突破する方法を学び始めました。封鎖を突破することはそんなに容易ではありません。その当時、誰にこのような技術が分かるでしょうか。他の同修は以前、一つの方法を習いました。それは秘密のメールボックスを作って、ネットカフェでそのメールボックスからいくつかのものを受け取るというやり方でした。私は教わった方法でメールを受け取ってみましたが、なぜか受け取った物は全部「人民ネット」のもので、明慧ネットの内容がありませんでした。しかも、家でネットにアクセスできないものでした。それから私はプロキシサーバーという言葉を知り、私はネットでこれらの用語を学びました(常人のネットにその内容がある)。次第に、プロキシサーバーの簡単な知識を学び、封鎖を突破するにはこれらのものに頼ることを知りました。また1次プロキシサーバーと2次プロキシサーバーもあることが分かりました。
久しぶりに明慧ネットに繋がる
しかし言葉が分かっても、私はやはり明慧ネットにアクセスできませんでした。具体的な使い方も知りませんでした。資料が切れて随分長いのに、私はまだ明慧ネットに接続出来ませんでした。その頃、私はとても焦りました。私は心の中で師父にお願いしました。師父はまた私を助けてくださいました。ある日、私はネットカフェに行き、検索エンジンに「明慧網」の三文字を入力しました(実はこのような方法は、その当時とても危険でしたが、師父が私を守ってくださいました)。ページには明慧の文章がたくさん出ました。私はうれしくて緊張して、その時、私はこれらの資料をあまりにも手に入れたくて、心理状態が不安定になりました。私は他の人に見られたらまずいと思って、そのページを閉じたいと思いましたが、そのページはどうしても動きませんでした。最後、私は電源を切って無理に閉じました。この事から、私は自分の恐れる心に気づきました。絶え間ない法の勉強によってだんだんとそれを取り除くことができました。
それから、私は検索エンジンから明慧ネットの文章を探すことができました。私はとても嬉しくて、自分の家のパソコンでアクセスしてみようと思いました。しかし当時、心はとても揺れ動きました。邪悪は監視していないでしょうか! もし監視されていて、邪悪がこの電話を通して私の家を見つけたらどうしようか。しかし、試してみなければ、いつになったら、明慧ネットにアクセスできるでしょうか! 最後に、正念が優位に立って、試みることを決めました。この試みは、私の県の資料の入手ルートを切り開きました。
私は家のパソコンで検索エンジンを開いて、「明慧ネット」と入力しました。多くのバラバラな明慧の文章が出てきました。しかし、明慧ネットではありませんでした。突然、私はあるページで、一つのソフトを見つけました。それは「花園」でした。私が説明通りにクリックしてみたら、突然明慧ネットのトップページが目の前に開きました。師父の慈悲なるお顔、私の親しんでいた法輪、あの神聖で純潔な蓮の花……。私は感動して涙があふれました。お久しぶりです、明慧ネット! お久しぶりです、師父! 私はついに繋がりました!
これは邪悪による迫害の初期で、邪悪が最も凶暴な時期でした。当時、明慧ネットにアクセスするのは、今のように簡単ではありませんでした。どれほどの困難を克服しなければならなかったでしょうか! 師父の助けの下で、私はついにアクセスすることができました。
地元の技術の中堅になる
明慧ネットにアクセスできるようになって、私は大法の全世界での情勢が分かり、師父の経文、書籍を読みました。また大法弟子の文章と交流を読みました。また技術についての文章もあって、すべてが資料でした。私は飢えているかのように技術を学びました。またプリンターを買って、印刷もマスターし、最初の資料を作り、同修達に届けました。印刷するのも大変な曲折を経験し、苦難に満ちていました。同修達は多くのアイデアを考えてくれましたが、ここではもう一々言わないことにいたします。
その日から、私達の県は他の地方から資料を受け取るという不便な状況から抜け出しました。私は絶えず新しい技術を学びました。それから「花園」を使って、「自由門」、「無境界」等のソフトをダウンロードして、技術も更に熟練しました。その後、私は映像の書き込み方法もマスターし、DVD、VCDの制作をしました。その上、映画とテレビの映像編集技術もできるようになりました。今、明慧が薦める技術、携帯電話技術も含め、私はほぼ全部できました。携帯電話のファームウェアの書き換えもできるようになりました。
新唐人テレビの取り付けも習得しました。最初、この技術を習ったのは別の同修でした。彼の努力に感謝します。私は彼について2カ月でアンテナの取り付け方を覚え、その後、多くの同修に教えました。あの年、私の地元ではアンテナの取り付けがブームになり、私が教えた同修は取り付けの主力となりました。
今、私はわが県の同修の中で技術の中堅です。多くの資料点は私の手伝いによって創立したものです。わが県で資料点は至るところで花を咲かせています。その中で、私と同修達の努力の成果は大きかったのです。もちろん、私はただ簡単にその過程をお話しましたが、その中の多く艱苦と紆余曲折について、それを一々言葉で話し尽くすことはできません。
私は今、コンピュータ隔離技術(訳者注:コンピュータの安全性を確保するため、外部ネットワークと内部ネットワークを完全に分離する技術)を学んでいます。私はこの技術を広めたいと思っています。私には多くの考えがあります。これらの技術を利用すれば、もっと多くの人に真相を送信することができます。私はいっそう努力して、師父の慈悲なる済度に報いたいと思います。同修の慈悲なるご叱正をお願いします。