明慧法会|若い警察官が精進し 法を正す道を歩む(一)
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年1月15日】私は、本当はもっと早く中国本土のネット上での法会に参加すべきでしたが、自分で拒否し、そして、ネット上での法会に参加してもしなくてもよく、また、どちらにしても師父は何もかもご存知だという思いがありました。以前、修煉体験を二つ書いたこともあり(同修に渡したまま発表されたかどうかは聞きませんでした)、時間があれば書きます。自分は他の同修ほどよく修めていないし、書くこともなく、それに書いたとしても発表されないなどと、間違った考えがありました。今から思えば、それはよく修めていない表れで、修煉の厳粛性に気づかず、そして、多くの利己心が隠されていました。今、私はこの一歩を踏み出し、真剣に交流文章を書き始めた時、これこそが真の修煉の過程であり、執着心を取り除き、同修たちとともに向上する過程なのだと、やっと本当に体得しました。

 一、大法に出会い、学法し、心性を修める

 私の職業は警察官です。1998年10月頃、当時はまだ派出所で働いていた時でしたが、弟から『轉法輪』を紹介されました。この本はとても素晴らしく、身体に関する問題も述べられており、奥深い内包があり、読んでみるようにと勧められました。十代から弟と気功に関わってきましたが、体に関することなど一度も聞いたことがなかったので、近くの書店で『轉法輪』を買い、読み始めると、どんどん読みたくなり、こうして法輪大法の修煉の道を歩み始めました。

 その後、何回も読んでいるうちに、師父は私の体を幾度となく浄化してくださいました。最もはっきり覚えているのは、冬に1週間ずっとひどい風邪を引いたかのようで、全身が痛く、目まで痛み出しました。これは体が浄化されているのであり、病気ではないと、私は何度も自分に言い聞かせました。派出所で夜、当直をしていた時、布団はそれほど厚くはなかったのですが、夜中に熱くてたまらず、全身から汗が出て、起きて何度も拭きました。翌日起床すると、体が軽く、しかし私と一緒に当直をした同僚は、「外は雪が降っているのか、道理で昨夜は寒かったのだ」と言っていました。

 『轉法輪』の中で、「修煉は専一でなければならない」とあります。これを理解すると、弟と以前に読んだ気功書を捨てるものは捨て、焼えるものは焼やし、寝室にある大法の書籍以外の本はすべてきちんと整理しました。その夜、ある夢を見ました。誰かが私に本を持って来て、受け取って見ると、なぜか「轉法輪(三)」? とありました。これはおかしいと私はその人を追い帰し、妨害されませんでした。

 法を得た当初はまだ若く、男女の情での試練も多く、厳しいものでした。最初の試練は大学時代の彼女の浮気でした。就職して彼女と別れましたが、それがなんと当時仲の良かった友人(3人は同じクラス)と付き合い始めたのです。法を得てから、情を重く見てはならないことを知り、考えることも少なくなりました。しかし、『轉法輪』の中に、「しかし、往々にしてトラブルが発生する時、それが人の心の奥深いところを刺すような激しいものでないと効果が上がらず、向上につながりません」と書かれています。よりによって、彼女たちが親しくしているところを見せ付けられました。その時、私は本当に動転してしまって、動悸も早くなり、仕方なく持っていた本を読み始めましたが、それでも駄目で、直ぐに大きな声で読みました。ゆっくりと、引き起こされた執着心は消えていきました。

 派出所に着任してから、そこには新たな社会環境があります。ある窃盗犯が留置場に送られる前、派出所に拘束されました。その妻はすでに亡くなって、息子と娘だけが残され、父親に会いたいと泣いていました。私は同意して、2人を面会させました。その女の子は私をしっかり覚えていて、過去2年間、何日かおきに私に電話をかけてきました。携帯電話をロッカーに入れて聞かないようにしましたが、同僚たちに、「すごい魅力ですね」とからかわれました。夜、座禅をしていた時、また電話が鳴り始め、様々な方法で私を誘惑します。以前は彼女がかわいそうにと思っていましたが、これでは度が過ぎるので、断固として拒絶し、以降、再び彼女を相手にしませんでした。

 夢の中での試練はさらに多く、時には乗り越えられますが、乗り越えられない時もあり、よろめいて長時間かかりました。色欲の執着を取り除くため、私はまだ30歳を過ぎたばかりの頃、妻と寝室を別にしましたが、駄目でした―形式だけでは執着はなくなりません。最後に静かに考えてみると、これはやはり自分の問題で、男女の情が芽生えるとすぐにそれを取り除き、次第にこの執着心も小さくなりました。その後、妻は「あなたはいつも禁欲と言っているから、私まで考えなくなりました」と言いました。

 私は常に同修たちと修煉体験を交流し、田舎の同修たちが本を手に入れることができないと知り、街から大法の本を持って行きます。1999年7月上旬、私は弟と市の繁華街で集団煉功に参加していました……。あの時は本当に喜ばしい時間でした。

 二、法を正す修煉

 1、修めるか否かの試練

 1999年「7.20」、中共(中国共産党)は史上かつてない法輪功に対する迫害を開始し、環境がガラリと変わりました。弟と交流する以外、大法の本を読むしかありませんでした。あの時、天地を覆うほどの嘘と邪悪に、私の修煉に対する固い決意も揺り動かされました。しかし、大法の本だけは手放したくなく、ただずっと『轉法輪』を読みたいだけでした。ほかに何もしたくなく、煉功もしたくなく、ただ、ただ読んでいました。『轉法輪』の「ある時期になると、功が本当に存在するのかどうか、修煉はできるものなのか、果して高い次元へ修煉していけるだろうか、佛は本当に存在しているのか、などについて、あなた自身が紛らわしく思い、迷ったりすることが起きます」、「迷いの中で、あなたの大法そのものについて認識できるかどうかも、まだ問題なのだ!」を読んで、私も考えました。「本当かどうかはともかく、当初、大法を修煉することを選んだのならば、一万歩譲って、たとえ間違ったとしても、この一生しかない」と思いました。今からみれば、その時の考えはおかしく、理性的でなく、法に基づいて考えていませんでした。その時、何度も本を読み返していなければ、今でも試練の中にいて、修煉し続けてはいなかったと思います。

 本当にこの関を乗り越えたとは言えないため、その後、この面での試練に時に遭うことがあります。妻だけでも何度も私に修煉をやめさせようとして、家出、離婚、堕胎などの方法を使いました。しかし、すべてが妻の思い通りにはならず、かえって、私は自分を振り返って見て、さらに理性的に、法の上から修煉のことを考えるようになりました。こうしてあの厳しい2年間を乗り越えてきました。

 またその後、派出所の中庭で同修が真相CDを配っているのを見て、ほかの同修が接触し、外に出ました。上司が、私が法輪功を修煉しているのを知り、私の前へ来て、何も聞きませんでしたが、私が外に出たとたんに私に言いました。「あんたは大学生なのに、なぜこれを修煉するのか? あんたは一家の大黒柱で、家族のことを考えたりしないのか?」。私は「(悪党)中央が決めたことは間違っています。法輪功はあの宣伝しているようなものではありません」と言いました。彼は私を説得できないと分かり、真・善・忍を修めているため、私への印象が良く、私を困らせることなく、機会を見て、彼は自らほかの所へ行ってしまいました。

 2、発正念

 1999年「7.20」後、私は夢の中で、壁や床、様々な置物、そして部屋中に蛇(「さまざな種類」)がいるのをよく見ました。当時は心性が低く、他の空間の邪悪の仕業だとは悟れず、大法の神通力で消滅することも思いつかず、ただ1人で棒で殴り、足で踏み、時には多すぎて片づけられず、逃げ回り、いつも驚かされて目が覚めるのです。

 師父が発正念についての法を説かれた後、定刻に発正念を開始しました。特に派出所に集中して発正念をした後、夢の中で見た所内の蛇がいなくなり、部屋の中の蛇もいなくなりました。ある時、夢の中で、大蛇の黒い皮だけが残っているのを見て気が緩み、その蛇はまた復活し、長時間かけてやっとすっかり消滅しました。まさに師父がおっしゃったように、「正念を発するときの念も落ち着いておらず、正念を発して良くないものを取り除きながら、良くないものがまた同時に生じています」[1]の状態でした。つまり、発正念の時は、心を集中しなければなりません。

 発正念を開始した初めのころ、ほとんどが派出所でするため、大きな妨害がありました。夏の昼間は蚊が少ないはずなのに、発正念を始めると、蚊に噛まれ、ブンブンという音に妨害され、それは次第に大きくなり、何百匹もの蚊に囲まれているかのようでとても耐えられず、掌で1匹を叩き潰すと、音がすっかりなくなりました。時には、ネットに繋がらない時も発正念をして、効果が表れました。ある時、ネットカフェで、ネットを突破するソフトがなく、中国で有名なネットからメールを作り、明慧と連絡を取ろうとしました。最初は送信できず、ネットカフェから出て発正念をし、戻ってやり直してみると成功し、そして、明慧からの返信も受け取りました。

 3、恐怖心を取り除く

 しっかりと修めていなかったため、漏れがあり、邪悪に隙を突かれて迫害され、私は不当に監禁されました。不当に自由を制限された初日、とても大きな恐怖心があり、邪悪は何人もの警官を送ってきて、何人もの幹部が私と話し、その様相は尋常ではなく、頭が瞬時に真っ白になりました。夜、ゆっくり考えると、すでにこのよううな状況になっており、自分のことは自分で責任を取るしかなく、しかし、決して他の同修を巻き添えにしてはなりません(当時、やはり邪悪の迫害を認めてしまったのです。今思えば、決して協力しなければ、翌日、何事もなかったのかもしれません)。

 留置場から出ても、恐怖心が取れず、電話や行動が監視されるのを恐れ、同修たちともあまり連絡を取りませんでした。国保大隊に会うと、その目線を避けたり、隠れたり、少しでも何か噂が流れてくると、すぐに大法の本や資料を隠して、読むことすらしませんでした。このような状況が長い間続きました。その後、私は考えました。「自分は一体どうなってしまったのか? これは修煉しているのか? 駄目だ。恐怖心を取り除かなければならない。一体何を怖がっているのか?」と自分のうちに向けて探しました。それは再び拘束され、今の生活環境を失うのが怖いのです。修煉の目的はなんなのかを自分に聞きました。『轉法輪』にはこのように書かれています、「常人が得ようとしているものは個人の利益で、どうすれば暮しが良くなるか、どうすれば楽に暮せるかということです。煉功者はそれと正反対に、常人の得ようとするものは求めようとしません」。それらは天上に持っていくことはできないというのに、私はまだ人間のものに執着しているのです。師父の経文『同じく二言三言』の中で、「宇宙の真理に対する堅固で破壊できない正念は、善良な大法弟子の、磐石のごとく堅固な金剛の体を構成しています。すべての邪悪は驚き恐れて」。邪悪たちが大法弟子を閉じ込められるはずはないのです。同修たちも助けてくれます。このように考えてくると、ずっと気が楽になり、恐怖心もゆっくりと消えていきました。ある時、公安局で仕事をしていると、国保の警官に会い、私は彼を真正面から見て、挨拶しようとした時、彼は私から目をそらし、あわてて逃げて行ったのです。

 (続く)

 (明慧ネット第9回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 注:

 [1]李洪志師父の経文『大紀元会議での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/11/9/264921.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2012/12/19/136705.html)
 
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