明慧法会|獄中で修煉を始めて11年(二)
■ 印刷版
 

文/雲南省の大法弟子

 【明慧日本2014年1月13日】その後、私は独房室へ監禁され、警察は批判する資料を書くよう私に無理強いし、「書けば、独房室を出してやる」と言いました。ちょうどその頃、私の母も子供の誘拐売り飛ばしで捕まったので、大きなショックを受けました。警察は母も山東の監獄に送り、私と一緒に監獄に入れましたが、同じ監区ではありませんでした。母は昔、占いや風水をやっており、めちゃくちゃなものを拝んでいたので、警察は母を利用して私を「転向」させようとしました。母はギャーギャー泣きわめいて、私に「転向」を無理強いしましたが、私は放っておき、母に会うとすぐに発正念をして、母の後ろにいる悪の要因を取り除きました。それから、母は私を「転向」させようとしなくなり、私の話を聞くだけでした。

 邪悟者も代わる代わる私を転向させようとやって来ましたが、私はハンガーストライキで拒みました。「これ以上食べないと灌食だ」と、警察が言ったので、私は「これらの人たち(邪悟者)が私を煩わしに来なければ、私は食べます!」というと、それから邪悟者は本当に来なくなりました。

 その間に、検察院から2人が独房室に来たのですが、私が法輪功を習ってここに監禁されていることを聞き、さらに、私が別の罪のために留置場に入れられてから修煉を始めた、ということが明らかになると、いぶかしがって憤慨し、大声で私に「法輪功は正しいのか、邪なのか、言え! 言え!」と問いただしました。その時、私は心配だったので、口に出しませんでした。検察院の2人が行ってから、私が師父の『道法』をそらんじてみると、師父のおっしゃった話で私はすぐにピンときました。そうだ、私の人間的な一面はどうして法を正さないのか?  警察は私に言わせようとしたではないか? 「どうして言わないの? 私に書かせようとしたのに、どうして『法輪大法は素晴らしい』と書かないのか?」と、自問しました。独房室での12日目に、この点を私は悟り、内心大喜びで、私を監視していた人に言いました。「早く、早く持ってきて、書きますから!」。そこで、私は紙に「法輪大法は正法で、師父は衆生を救い済度しにいらっしゃった方ですから、私に学ばせず、修煉させないようにしようとしても、できません」と書きました。やっとこの紙に書いたら取られてしまいました。監獄長が、私が書いたのを見に来て、腹を立てしきりに足を踏み鳴らしたので、「私に関われば関わるほど信念は揺るぎなくなります」と言い、さらに、「途中からやり始めた私は法輪功よりもまだ法輪功なんです」と言いました。私が心の中で正念を発していると、監獄長は頭がたまらなく痛くなり、すぐに行ってしまいました。私の今回の振る舞いで私の環境はすぐさま変わり、翌日、監区長が私を迎えに来て独房室を出ました。その時、監獄長の頭の痛さは、手で覆っていなければならないほどで、私は「大法弟子を迫害すれば、現世で直ちに報いがあります」と、大法弟子への迫害に加わらないように言いました。その後、監獄長は大法弟子の迫害に直接に参加しないようになりました。

 私は独房室を出たばかりでなく、警察の私への態度も大きく変わり、とても良くなりました。しばらく経って、当時留置場で煉功を教えてくれた同修(当時はあまりはっきりしていなかった)に私を「転向」させに来させましたが、それでも私を「転向」させることはできませんでした。私たちの監区には17人の同修がおり、みんなと相談した結果、すべての監獄に独房室は4つしかなく、17人の同修が一緒に煉功したら、監獄には誰を入れるのか、見てみることにしました。そこで、私たちは全体で協力し、一緒に煉功しました。警察は立腹のあまり怖い顔をして絶叫しましたが、私たちはなんということはありませんでした。翌晩も私たちは続けて煉功し、それから毎日煉功し、最後には、以前「転向」したすべての者もまた、反対に「転向」し、誰もが「厳正声明」を書き、最後まで大法を堅く修めることを誓いました。

 新しい同修が私が監禁された独房室に入れられて間もなく、警察はすぐにその新しい同修を迫害し始めたのですが、はじめ、その同修は関をうまく乗り越えられず、後になって、私はその新しい同修が死んだ夢を見たので、関をうまく乗り越えられなかったのだと思いました。私はその新しい同修に私がどのように関を乗り越えて来たのかを伝えたいと、師父にお願いしました。結局、私たちはトイレでばったり出会いました。私は夢の事を、その新しい同修に言いました。その後、警察は、その新しい同修に私を「転向」させに来させたので、私はこの機会を利用して、私がどうやって関を克服したのかを詳しく話し、師父が慈悲深く見守ってくださる下で、「厳正声明」を新しい同修は書き、それからずっときっぱりと、私たちと一緒に煉功しました。

 私は独房室に行って迫害されてもそれを完全に乗り超え、独房室を出てから手紙を書き、私に電気を流し、私を独房に拘禁した罪状で警察を訴えました。私の手紙は監獄長の郵便受けと他の郵便受けに届きました。刑務所長がわざわざ訪ねてきたので、私は迫害された状況を話しました。

 その時は、ちょうど母の日で、母の日の刑務所の公演のチャンスを利用して、ある同修が舞台に上がって大法の曲「あなたのために」を歌いましたが、警察は法輪功と聞くと、前に出てきてメガホンで横合いから口出しをしてきたので、同修の出演もそこで中断しました。それから、曲を歌った同修に作業場に足を踏み入れさせず、働かせなかったので、歌った同修を独房に拘禁したのだと考え、同じ監区の残った16人の大法弟子は集団で絶食し、ハンガーストライキをして、「彼女が出てくれば、いつでも正常な状態に戻ります」と、言いました。数日間でこの同修は帰ってきたので、邪な連中の迫害は成功しませんでした。

 警察は私を事務所に入れて、跪かせようとしましたが、私は跪かず自信を持って言いました。「私の罪はもう返しました。現在の罪名は、あなたたちが押しつけたものです! 私は無罪です」と言い終わったところで、2人の警察が私をひねり、跪くよう私に無理強いしたので、しゃがみ込みましたが、邪悪には服従しないと、また立ち上がりました。それからまた私を事務所に入らせると、一つの腰掛が私を待っていました。

 その後、『洪吟』の中の詩を、私は書き始め、警察に見せましたが、警察が私に何かを書かせる時はいつも私は「大法は素晴らしい」と書き、大法の要求に従って書きました。警察が何回も私に書かせようとすると私はすぐに書いたので、最後は、警察は私が書くのを恐れるようになり、私が書くのを許さなくなりました。作業においても私に役割を与えなくなったので、私はやりたいだけをやりました。

 その頃見た夢は、「スポーツ選手が賞をもらっており、見てみると、自分の名前があったので、私は舞台に上がって賞を受け取りました。他の人の賞はみな、玉のおもちゃでしたが、私のは二つの鍵だった」という夢でした。また、私は夢で、大学に受かり、難しい試験に合格して、さらに、大学院に進みました。

 最初、私は懲役5年の判決を受けましたが、11カ月繰り上げられて帰宅しました。

 三、まったく力を抜けなかった修煉過程

 2004年に、私は故郷に戻りましたが、現地の同修が見つからず、比べようもないほど一気に孤独になり、喪失感を味わいました。私は監獄の中で家に宛てて書いた手紙にはいずれも「大法は素晴らしい」と書いたため、監獄長に押さえられていました。私は家に戻った後、家族に真相を伝えると、3番目の兄の嫁も少しずつ修煉を始めました。帰宅した後、私は記憶をたどって、『洪吟』の詩を1冊のノートに書き、留置場で同修が教えてくれた『轉法輪』の中のそれぞれの講の小見出しを空で書きました。同修は見つかりませんでしたが、監獄の同修はみな、正法の進展の知らせと師父の新経文を持ち込んでいたので、私は出て行って、真相を伝え、衆生を救い済度しなければならないということを、承知していました。私は紅紙と毛筆を買い、「法輪大法は素晴らしい、真善忍は素晴らしい」と書いて貼りに行き、布に書いて掛けました。監獄で、同修が山東省の同修を教えてくれたので、私はその山東省の同修に連絡し、それからはずっと、この同修が新経文を送ってくれ、その土地の同修に連絡をしてくれました。

 1年経っても、故郷の同修は見つかりませんでしたが、監獄で知り合った同修が家に帰ったので、私は記憶をなぞりながら、幾千里の道を列車に乗って山東へ同修を探しに行きました。それというのも、その時、私にはまだ非常に貴重な書物である『轉法輪』がなかったので、私は急いで『轉法輪』を持って帰宅したかったのでした。刑務所で知り合った同修を見つけた後、同修は『轉法輪』と『共産党についての九つの論評』と『新経文』と師父の各地の説法を私のために箱に入れ、列車に乗って故郷へ持ち帰りました。そこの同修はみな、私のために発正念し、私が無事帰宅できるよう保護してくれ、私自身も発正念をし、結局、セキュリティーチェックも障害もなく、私は順調に貴重な書物を持って戻りました。

 帰宅した後、私は軽食堂を開き、来店して食事をする人に『共産党についての九つの論評』のDVDを見せていたところ、ある時、門番をしているおじいちゃんが来て、見た時、ある人もそのおじいちゃんに1枚くれたけど、そのおじいちゃんは見る気がしなかった、と言い、さらに、そのおじいちゃんの妻も留置場にいた時、法輪功を習っている人と知り合い、この大法修煉者はさらに、留置場でそのおじいちゃんの妻を助けてくれたので、そのおじいちゃんはこの大法修煉者に感謝しています、ということを話しました。

 この話を聞くと、私は嬉しくなり、「この大法修煉者はどこですか?」と、このおじいちゃんに慌てて尋ねました。何べんも尋ねて、このおじいちゃんはようやく話したので、私はノートに記し、それから、この同修を訪ねに行きました。初めに行った時は見つからず、同修はまだ刑務所でした。2回目に探した時に、その同修を見つけました。それから、私は現地の大法修煉者と連絡しましたが、自分の家を探しているかのように落ち着いていました。

 (続く)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/11/30/249401.html)
 
関連文章