再び名について話す
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  【明慧日本2014年8月23日】私は『名について話す』の体験談の筆者です。この文章を書いた当時、考えが固まったものではありませんでした。しばらくの修煉を通じてより多くの法理が分かってきたので、新たに文章を書いて同修と交流したいと思います。

 名とは何か? つまり骨の髄まで他人に認めてもらいたいという執着です。自分の内心を反省すると、心の底から他人に褒めてもらいたい心、また、否定されると機嫌が悪くなる心が見えてきました。有名になれば自分を称賛し、お世辞を言ってくれる人が現れ、幸せに感じます。逆に有名になることができず、あるいは名誉を失うと圧力を感じ、他人に排除され苦しく感じます。他人からのお世辞や称賛を求めること、あるいは圧力をかけられ、排斥されることを恐れる基点から自分を修める行為は、すべて名を求めることだと思います。私は名を上名、中名、下名の三つの階層に分けて、正確ではないかもしれないが、述べたい要点をまとめてみたいと思います。

 「上名」を求めるとは、努力して自分を修め、皆に尊敬される立場、地位に就き、人に称賛され、お世辞を言ってもらうのが目的です。社会で現すと、多くの人が社長や地位のある人になりたがります。ここで言わなければならないのは、一部の同修が実はこの上名を修めており、将来人に崇拝してもらい、自分の良さを信望してほしいと望んでいます。共産党が倒れて大法弟子が自然と有名になり、全世界の人々に尊敬されたい。これも上名の一つで、大法弟子に対する大きな試練でもあります。

 「中名」を求めるとはつまり階層のことで、誰が誰の上におり、誰が誰の下にいるかを言います。社会から家庭に至るまで順序の問題があり、つまり階層があります。上の人が優先の権利を有し、下の者は抑圧され、コントロールされます。人は思わず上を目指して、下へ行くのを避けています。

 「下名」、つまり名を捨てることによって人に悪く言われます。これは制御するのが最も難しく、とても苦しいからです。多くの人はこのために嘘をつきます。名を失う瞬間、天が落ちてきかのたように感じます。

 名を修めるうえで難しいところは2点あり、一つは身に染みこんでいるという問題で、非常に自然かつ頑固に現れてきて、皆当たり前のように思っています。修煉者も少し気が緩んだらすぐに常人の理に戻ってしまいます。もう一つは「下名」を修める苦しさ、小さい名を失うならまだいいのですが、万が一大きな名を失ったら生きるのも辛くなります。

 真に修煉している人は名に執着しません。はっきり言えば、本当に名利情を放下できたら、外見の美しさや内心で自分の実証を求める行為もなくなります。

 わずかな感想ですが、同修のご参考になればと思います。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/8/8/295731.html)
 
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